『源氏物語』とミレニアム

(第54号、通巻74号)
    
    今年は、『源氏物語』の存在が記録の上で確認されてからちょうど1000年の節目の年に当たるのだそうだ。新聞の雑誌広告に載っていたのを目にしたのがきっかけで先日、初めて知ったことなのだが、2008年を「源氏物語千年紀」と位置づけ、京都を中心に多彩なイベントが繰り広げられる計画という。

    『源氏物語』は、言うまでもなく世界最古の長編小説の一つであり、日本の古典文学の最高傑作、とされる。が、私自身について言えば、原文はもちろんのこと、現代語訳も読み通したことはない。ただ、本は持っている。実は3種類もの『源氏物語』が書棚にあったのだ。

    そのうち買ったことを自覚していたのは、奇才・橋本治の手になる『窯変源氏物語』(中央公論社)だった。もっとも見つかったのは、全14巻のうち1991年5月20日発行の第1巻だけだ。あと2、3巻はあったはず、と書棚の奧をゴソゴソ探していたら、存在そのものを意識していなかった瀬戸内寂聴訳の『源氏物語』(講談社、1996年12月11日巻1発行)が出てきたが、それとて全10巻のうち第1巻、2巻、3巻だけ。読み通そうと志したものの、途中で挫折し、残りの巻は買ってもいなかったわけだ。

    唯一の例外は、古典名作漫画と銘打った‘The Illustrated TALE OF GENJI’(新人物往来社、1989年10月10日発行、英訳・Alan Tansman、画・つぼい こう)という英訳漫画である。1冊本の超ダイジェスト版なので、一般の『源氏物語』と同列で比較するわけにはいかないが、日本語の原作(古文)より英文の方が分かりやすい。

    古文としては比較的やさしいが、有名な「桐壺」の書き出しの部分を英訳例と比べてみよう。
    「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひ給ひける中に、いとやむごときなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり」《注》。

    ここは、アラン タンスマンの英訳では、一部原文を補って‘It was the reign a certain Emperor sometime in the past. Among the many consorts and attendants serving the Emperor, there was one who, though not of greatly exalted status, drew to herself all of the Emperor’s patronage. Her name was Kiritsubo.’となっている。

    サイデンステッカー訳だと、もっと簡潔だ。‘In a certain reign there was a lady not of the first rank whom the emperor loved more than any of the others’

    『源氏物語』の外国語訳は、英語だけでない。中国語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、イタリア語、スペイン語チェコ語など各国語に翻訳されている。国内では平安時代の末期からこれまでに注釈本や研究書が数多く出され、しかも現代語訳が上述の人以外にもさまざまな歌人、作家(与謝野晶子谷崎潤一郎円地文子田辺聖子……)の手で試みられている。にもかかわらず、全54帖(巻)を読み通した、と言い切れる人はそうはいまい。

    現代語訳を400字詰め原稿用紙にすれば約4000枚にもなるという超大作である。「源氏物語千年紀委員会」の呼びかけ人の1人で自ら現代語訳を出版している瀬戸内寂聴さんがある対談で「枕草子はみんな知ってけれど、源氏物語は名前だけで実際の中身は知らない。学校で教えるべき先生が読んでいない」と嘆いているのももっともだ。

    ともかく、しかし「千年紀」と言えば、キリスト教の「至福千年」を表す「ミレニアム」という語が思い浮かぶ。実際、西暦2000年を迎える直前の90年代後半に、コンピューターの2000年問題ともからんで話題になったものだ。

    次回は、「ミレニアム」をめぐる戯言を書き連ねてみたい。

    
《注》 1、『全訳古語例解辞典』第2版(小学館)の訳。「どの天皇の御代であったか、女御や更衣が大勢お仕えなさっていた中に、それほど高貴な家柄ではない方で、ひときわ帝のご寵愛を受けておられる方があったのだった」
    2、『窯変源氏物語』。「いつのことだったか、もう忘れてしまった――。帝の後宮に女御更衣数多(あまた)犇(ひし)めくその中に、そう上等という身分ではないが、抜きん出た寵(ちょう)を得て輝く女があった。女の身分は更衣である」
    3、瀬戸内寂聴訳『源氏物語』。「いつの御代のことでしたか、女御や更衣が賑々しくお仕えしておりました帝の後宮に、それほど高貴な家柄の御出身ではないのに、帝に誰よりも愛されて、はなばなしく優遇されていらっしゃる更衣がありました」

《参考》 ウェブサイト「21世紀の歩き方大研究」の中の「新たなミレニアム(千年紀)を考える」(http://www.ne.jp/asahi/21st/web/millennium11.htm)や京都府のウェブサイト「源氏物語千年紀事業」(http://www.pref.kyoto.jp/2008genji/index.html)などを参照。