「王道」へは“狭き門より入れ”

(第42号、通巻62号)
    
    ある全国的な組織の季刊誌の編集委員として編集後記に「春4月と言えばスタートの月、心はずむ季節である。春風に舞い上がったわけではないが、今月からラテン語を独学で始めてみようと思い立った」と書いたことがある。印欧語の祖語であるラテン語をかじっておけば、ロマンス語系統の他の外国語の習得も同時並行的に簡単にできるだろう、との虫のいい魂胆もあったのだが、今考えると何とも大それたことを公言したものだ。意気込みだけでマスターできるほど語学は甘くはなかった。

    「幾何学に王道なし」。古代のエジプト王プトレマイオス1世に招かれたギリシャの数学者ユークリッドが、「もっと易しく幾何学を学べる方法はないのか」と問われて「恐れながら」答えた言葉だ、と伝えられている。この故事が、「学問に王道なし」と一般化して言われるようになった。アレキサンダー大王の家庭教師を務めたギリシャの哲学者アリストテレスの言葉、という説も広く流布しているが、いずれにしろ、ここで言う王道とは、手軽な近道、楽なやり方、といった意味であり、英語の‘There is no royal road to learning’からの訳語というのが通説だ。

    しかし、日本では、元々はまったく別の意味でしか使われていなかったようだ。中国の孟子が説いた「君主が仁徳をもって国を治めること」を指していたのだ。J.C.ヘボンの『和英語林集成』(1886年)の「王道」の項に「古代の帝王が行った公正にして真の平等な政道」とあるのは、その表れだ。「王道楽土」という熟語もここから生まれた。

    たいていの国語辞書には、上記の二つの語義しか載っていないが、昨今はよく「蕎麦(そば)打ちの王道」とか「古典研究の王道を行く」とかいう表現を耳にするようになった。そんな新しい用法を取り込んだ辞書も出てきた。たとえば、小学館の『現代国語例解辞典』第4版では、「王道」の3番目の語義として「物事が進んで行くべき正当な道。欠点のない方法や手段」と説明している。

    語学に王道があるとすれば、この3番目の意味だろう。文法の基礎を地道に踏み固めながら、語彙をコツコツと増やしていくほかないのだ。ラテン語の名句に、‘Dum spiro, spero’(「息をする間、私は希望を持つ」=生きている限り希望を抱くことができる)というのがある。元よりラテン語を征服しようなんて思っていたわけではないのだから、望みは捨てず、ラテン語のすそ野を1歩1歩ゆっくり歩き続けようと思う。
 

《参照》 『故事名言・由来・ことわざ・総解説』(自由国民社)、『明鏡国語辞典』(大修館)、『明鏡ことわざ成句使い方辞典』(同)、『大辞林』第3版(三省堂)、『角川国語中辞典』、『広辞苑』第5版(岩波書店)など。