「立ち上げる」はパソコンから生まれた新語?!

(第35号、通巻55号)
    パソコンが普及するにつれ、様々な新語が生まれた。インターネット、インストール、ソフト、Eメール、フリーズ、マウス、クリック…。今ご覧いただいている『言語郎』という珍妙なタイトルのブログ。この「ブログ」という用語自体も一般に広まってからまだ10年もたっていない新参者だ。

    パソコン、もっと広げてI T 関連の新語というと、英語から日本語に入ったカタカナ語がほとんどすべて、と思われがちだ。しかし、数はそれほど多くないものの、昔からある日本語の語彙にも影響は及んでいるのである。

    中でも注目すべき例は「立ち上げる」という動詞だ。単に「パソコンを立ち上げる」と使うのが一般的だが、最近は他の分野にも転用され「ベンチャー企業を立ち上げた」とか「チームを立ち上げる」とか、なにか大きな企画、事業を始める時に使われるようになった。

    ところが、この「立ち上げる」という語そのものが“新語”なのである。そんな馬鹿な、昔からある言葉だ、と驚く向きも多いに違いない。が、以前からあるのは「立ち上がる」《注1》という自動詞(5段活用)である。「立ち上げる」という他動詞は元来、日本語にはなかったのである。国民的辞書の自負を持つ『広辞苑』(岩波書店)も1991年11月発行の第4版までは、「立ち上げる」という語はどこにもない。個性的な辞書で知られる『新明解国語辞典』(三省堂)の第5版(1997年11月発行)も同様だ。

    「が」が「げ」に変わると、目的語を持つ他動詞に変身する。『広辞苑』が「立ち上げる」を初めて掲載したのは、1998年11月発行の第5版からだ。それには、他動詞(下1段活用)として「コンピューターのシステムを稼働できる状態にする」とある。もっとも同じ岩波書店の辞書でも『岩波国語辞典』は1994年11月発行の第5版で一足早く他動詞の語形を取り上げている。つまり、「立ち上げる」はここ10年ほどの間に辞書に認知された新語、というのが私見である。

    昔からあった単語に、パソコン用語としての意味が新たに加わった言葉もある。「重い」は、データ量が多すぎてパソコンの動きが遅くなること、「上書き」は本来、手紙や書物の上、箱などの表面に宛先などを書くことを指すが、「コンピューターなどのデータ操作で、更新したデータを古いデータの上に直接書き込む形で修正すること。古いデータは破棄されて新しいデータだけが残る」《注2》の意味になる。「CDに焼く」、「固まる(フリーズする)」もパソコン時代の新用法と言える。
    最後に一つ、トリビアを紹介しよう。Eメールを受け取ってツールボタンの「返信」を押すと、画面の件名欄の冒頭に “Re:”が自動的に付いて表れる。パソコンやEメールについてのハウツー本の中には、「ReはReply(返事)という英語の略」と書いているものがあるが、この説明は返信という言葉に引きずられた俗説である。“Re:”は「〜について」という意のラテン語からきた言葉で、貿易、ビジネス英語の世界では以前から“in the matter of 〜” “regarding 〜”(〜の件に関して)の意味で使われている。“Re:your blog of the 5th September”( 9月5日付の貴ブログについて)という具合だ。
    
《注1》『岩波古語辞典』補訂版には、枕草子平家物語からの用例も掲載されている。

《注2》『明鏡国語辞典』(大修館書店)の語釈。