友の急逝を悼む

(第287号、通巻307号)

     小説家や詩人は、「うれしい」とか「悲しい」とかの感情を表すのに、その形容詞を直接使わずに「うれしい」「悲しい」という気持ちをいかに表現するかに腐心するという。

     職場時代、格別に親しかった同僚の一周忌を前にして仲間うちで「贈る言葉」の文集作りが企画されている。寄稿を依頼されて私はつい先日、「天の慟哭」と題した追悼文を苦労の末書き終えたところだった。その直後、今度はリタイア後の地域活動で知り合い、親しくなった友人が思わぬ病気で緊急入院したという知らせが届いた。

     友人は、80キロを優に越す巨体の持ち主で、明朗闊達なスポーツマン。これまで病気らしい病気をしたことがないという健康優良児タイプだったが、この1、2カ月、酒を飲む気がしない、とつぶやいていたので、入院の報に嫌な予感がした。

     案の定だった。入院してすぐ容態が急変、階段を転げ落ちるように病状が悪化した。ほんの少しだけ症状が持ち直したので、そのわずかな時間帯に地域の親しい仲間数人でお見舞いに行く算段をしている間に危篤の報。そして訃報。入院後わずか12日。あっという間の出来事だった。

     故向田邦子を評してあの山本夏彦が「向田邦子は突然あらわれてほとんど名人である」と絶賛したことがある。文章の達人の言をもじって言えば「団地の地域活動に熱心だった彼は、途中から活動に加わった私の前に突然あらわれて一気に親友になった」。そのかけがえのない友が急逝したのである。

     胸の奥から悲しみが突き上げてきた。ある程度覚悟はしていたものの、いざ現実に直面すると、柄にもなく涙がこぼれ落ちそうになった。人の死でこれほど悲しんだことはなかった。けれども、非才な私にはその悲しみを表現する言葉が浮かばない。頭脳はむなしく空転するばかりだ。自力で書き表すのは無理と悟り、有名な詩に託すことにした。

      私の若い頃の愛読書、学徒出陣戦没者の手記『きけわだつみの声』の序の締めくくりに仏文学者の渡辺一夫が書いたジャン・タルジューの詩を友と家族に捧げたいと思う。
     
      「 死んだ人々は、還ってこない以上、
        生き残った人々は、何が判ればいい?

         死んだ人々は、慨(なげ)く術(すべ)もない以上、
        生き残った人々は、誰のこと、何を、慨いたらいい?

         死んだ人々は、もはや黙ってはいられぬ以上、
        生き残った人々は沈黙を守るべきなのか? 」