再録――「エン麦」は馬のエサか人間の主食か

(第217号、通巻237号)
    
    先週号にならって今回も過去のブログのリバイバル版をお届けする。    
    講談社学術文庫に『英語の冒険』(メルヴィン・ブラッグ著、三川基好訳)という辞書マニアには格好の本がある。英語の「誕生」から「世界の共通号語」にまで発展した英語の歩みを、興味深いエピソードを交えてつづった語学読み物だが、私がおもしろいと思ったのは、辞書編纂(へんさん)の第一人者、サミュエル・ジョンソン博士の『英語辞典』《注1》の語釈をめぐる愉快なエピソードである。
     
    たとえば、好事家の間ではつとに知られているという“oats”という語の定義。朝食に使われる「オートミール」の食材「エン麦(ばく)」のことだ。
    
    この語は、日本の英和辞典では普通「オートムギ、エンバク、カラスムギ」の訳語が充てられているが、スコットランド嫌いのジョンソン博士は上述の『英語辞典』に次のように書いた。
   “A grain,which in England is generally given to horses, but in Scotland supports the people”(イングランドではふつう馬の餌になるが、スコットランドでは人の食料に供される穀物の一種)。
    
    書きも書いたり、スコットランド蔑視もはなはだしい記述《注2》だが、ジョンソン博士はまたフランスへの対抗心も強かった。対抗心というよりも反フランス感情の持ち主だった。それが、辞書の記述にも顔を出している。
    
    「策略」と和訳されている“ruse”という語を定義するのに「奸計(かんけい)、ささいな戦略、わな、たくらみ、詐欺、欺瞞」と同意語を次から次に書き、そのあげく「フランス語起源の語で、エレガントでも必要でもない」と言わずもがなの注をつけているのだ。
    
    好悪の感情は、勢い余って職業にまで及ぶこともある。“excise”(物品税)について「商品に課せられる憎むべき税金であり、その額は商品の質を正しく判定した結果にもとづくものではなく、税を集めるために雇われた小役人の判断で決められる」と書いて収税官の反発を招き、名誉毀損の裁判沙汰になりかかったともいう。
    
    一方で、『新明解国語辞典』(三省堂)の主幹を務めた山田忠雄もそうだったが、ユーモアのある記述もまた多い。
    
    その一例。“lexicographaer”(辞書編纂家)の項には「辞書を書く人。文書を書き写し、言葉の意味を説明するという仕事をこつこつこなす人畜無害の存在」と述べ、“dull”には、「退屈な。活力のない、楽しくないこと。例――辞書作りは退屈な仕事だ」という例文を添えている。個性的な辞書の編纂者は、洋の東西を問わず、まことに愛すべき稚気の持ち主なのである。


《注1》 英国で最初の本格的な英語辞典とされる。1755年出版。約4万語を収録、用例は11万に及ぶ。
《注2》 ジョンソン博士の辞書作りをサポートする助手にはスコットランド人が多かった。その中でも飛び抜けて優秀で、後に伝記文学の傑作と言われる『サミュエル・ジョンソン伝』を書いたジェイムズ・ボズウェルという人物は、ジョンソン博士によるオートムギの定義を本歌取りして「ゆえにイングランドでは馬が優秀にして、スコットランドでは人が優秀である」というワサビの効いた名言を残している。詳細は、ウエブサイト「イギリス生活情報週刊誌」(http://www.news-digest.co.uk/news/content/view/2144/206/)をご参照。