手を「こまねく」か、「こまぬく」か、どちらも「全然OK」  

(第28号、通巻48号)
    言葉は時とともに変わるものだ。語彙はもちろん、文法も語法も例外ではない。典型的な例として「全然」と「拱(こまぬ)く」の2語についてみてみよう。

    まず「全然」という副詞から。ふつうは、下に打ち消しの言い方や否定的な語を伴って「全然読めない」「全然ダメだ」というような使い方をする。ところが、近頃は「全然おもしろい」「こっちの方が全然大きい」などと、「非常に」「とても」の意味で肯定的に使われることが多い。

    この新用法について、言葉に敏感な、とくに文筆に携わる人たちは、違和感を覚え、間違った使い方だとして眉をひそめる。かくいう私もそうだった。現に多くの辞書も「会話などで、断然、非常に、の意に使うこともあるが、俗な用法」(『岩波国語辞典』第5版)というように「俗な語法」と明記している。

    ところが、『大辞林』第3版(三省堂)によれば、明治、大正時代には「全然」は否定を伴わずに「すべて、すっかり」の意で肯定表現にも使われていたという。『日本国語大辞典』第2版(小学館)には、肯定的な文例として夏目漱石の『それから』の「腹の中の屈託は全然飯と肉に集注(中)ゐるらしかった」という一節を載せている。要は、もともと、肯定表現にも否定表現にも使うことができたのである。それが、否定表現との結びつくことが多くなったのは大正末から昭和初めにかけて、とされる。
    「こまぬく」の場合は、「全然」ほど問題は一般的ではない。というのも、ほとんどの人が「両手を胸の前で組み合わせる、腕を組む」とか「(なにもせずに)傍観する」という意味の動詞として「(手を)(腕を)こまねく」という具合に、ごく自然に使っているからである。むしろ、「こまぬく」などという言葉はほとんど意識されていない、と思われる。

    しかし、実は「こまぬく」の方が本来の伝統ある正しい言葉なのである。規範意識の高い『岩波国語辞典』第5版で「こまねく」を引くと、「こまぬく、の訛り」とあり、「こまぬく」を見よ、との指示が出ている。また、個性的な辞書として「新解さん」とか「明解さん」とかという愛称まで付いている『新明解国語辞典』第5版(三省堂)には、「こまねく」は独立した見出しになっていない。その代わりに、「こまぬく」の項で「口語形では、こまねく、とも」と付記されているだけだ。
    現実には、上記で触れたように「こまねく」と使う人が圧倒的に多い。辞書を作る側の国語学者でさえそうなのだ。『新潮国語辞典』の編著者でもある山田俊雄氏は『ことばの履歴』(岩波新書)と題するエッセイの中で次のような体験を“告白”している。原文は少々長いのでかいつまんで紹介すれば―

  ――[「何も分からず、手をこまねくばかりだった」という文をある本に書いたことがあった。すると、国語辞典編纂者で、しかも現代語の蒐(しゅう)集家として知られる見坊豪紀氏から「先生の書いた文章の中に、こまねく、とありましたが、(誤植でなく)原文のままでしょうか」と言う趣旨の問い合わせがあった。私は、アッと低い声を発するのを禁じ得なかった。それは、確かに自分の書いた文だった。]――

    「私は、彼(見坊氏)に、辞典に訛りといわれている語について、私の実用例を提供したことにある種の当惑を覚えた」と、正直に当時の気持ちを振り返っている。その一方で、「こまぬく」は種姓(しゅしょう)正しきものながら、一層日常的でないように思われる」、「こまぬく、はすでに、辞典の中にのみ見出される語になったのではないのだろうか」と辞書編纂家として自省の弁を込めて書いている。ちなみに比較的新しい『明鏡国語辞典』(大修館)では、「こまぬく」の見出しの代わりに「こまねく」のみが出ている。ただし、注として「こまぬく、の転」と由緒は明記している。

   まことに、言葉は変遷していくものである。今回のブログで取り上げた2例で言えば、今や「『こまぬく』も、『こまねく』も、どちらも『全然OK』なのである。