続「こだわり」に「こだわる」

(第321号、通巻341号)

    よくもまぁ、これほど数多く収集したものである。『新明解国語辞典』の編纂者、山田忠雄主幹の著作『私の語誌』(三省堂)の第2巻は、副題に「私のこだわり」とある通り、「こだわる(名詞形、こだわり)」の用例のオンパレードである。ほとんどすべて新聞記事から採録したものだが、ざっと数えたところ、380をゆうに超えていた。

    しかも、文脈が分かるように前後の文章をかなり長めに引用し、その後に文例を分析、短評を加えている。しかし、ブログにこれらの主だったものだけでも紹介するのは煩瑣になるので、単行本の結論的な個所と、著名な文章家の「こだわり」に対する山田主幹の批判、いや罵倒とも言うべきすさまじい酷評ぶりを紹介しよう。

    まず、「こだわる」の根源的な意味は「それだけを唯一・至上の目標として追求する。若しくは、それを手中から離すまいとする」に帰するとしたうえで、この語は多用されている間に新用法が熟し「優先的的に、その事に関心を持つ。その物事の良さを見出し、深い奥行を極めたい、微妙な所を味わいたいと強く願う」という意味が加わった、としている。つまり、マイナスの要素をまったく含まない用法だ。

    この新用法については違和感を持つ識者・文筆家が少なくない。たとえば、江口滋氏。その著『日本語八ツ当り』で、「近ごろ目につくようになった“こだわる”という語法がどうもひっかる。ホンモノにこだわりたい。最近なぜか文房具にこだわっている。わたしラーメンにこだわってるヒトなの。これ、ちょっとおかしいんじゃないの。ほかに表現方法がないのならともかく、使い慣れたことばがいくらでもあるじゃないか」と嘆き、「“執着する”でもいいし、“愛着がある” でもいいし、“打ち込む”でもいいし、“惚れ込む” でもいいし、“凝っている” でもいい」と様々な言い換えを示している。

    これに対する山田主幹の感想は「そのような語釈と用例にコダワル論者は、頭がおかしいのではないか」。また、当代の名文家・丸谷才一氏と大岡信氏が『日本語相談・4』の対談の中で「“食にこだわる”とか“あなたのこだわり方を書いて下さい”とか、くだらないとしかいいようがない。変にセンチメンタリズムな言い回しだね」と語っていることについては「本人がどのように思おうと勝手だが、それが事実に全く合致しないものを根拠にして立論するのは、砂上の楼閣と言うのだ。出鱈目放題の対談、良いから加減の座談は“止めて貰いたい”」と酷評。また、『日本語相談・5』で個人的見解を述べた大岡氏には「正常な神経の持ち主とは到底思われない」とまで言っている。

    さらに、サラダ記念日でかつて一世を風びした歌人俵万智氏がある週刊誌に「“こだわる”はまるで料理にかける情熱の指標のようになってしまった」と書いたことについても「この自称歌人もまた前のso-called詩人(大岡信氏を指す)と等しく、コダワルの新用法に不快感を示す。その根拠を、本来いいニュアンスのある語ではなかった、ことに求めているが、国語学史的に言うと語源の明らかでない語である」と切ってすてている。

    批判の舌鋒は、他の辞書の語釈、用例にも及ぶ。先行の辞書に似せて作ったもの、と断じ、「全く嫌らしい、反吐が出そうだ」、「この国の辞書事情は、こんな調子では何時までも退歩と停滞を繰り返し」滅亡に向かう、と憂いているのだ。

    では、山田主幹の編集精神が色濃く残る『新明解国語辞典』第7版(三省堂)は「こだわる」をどう説明しているのだろうか。

  ――こだわる 1、他人から見ればどうでもいい(きっぱりわすれるべきだ)と考えられることにとらわれて気にし続ける。「自説(メンツ、目先の利害、枝葉末節)にこだわる」2、他人はどう評価しようが、その人にとっては意義のあることだと考え、その物事に深い思い入れをする。「カボチャにこだわり続けた画家/材料(鮮度・品質・本物の味にこだわる)〔2,はごく新しい用法〕

    読者の皆さんは、この「こだわり」をどう受け止めるだろうか。ブログ子の論評はあえて差し控える。

「こだわり」に「こだわる」と

(第320号、通巻340号)

    テレビの料理番組や旅番組で老舗の郷土料理店や人気のそば屋、ラーメン店などの紹介コーナーをのぞくと、「こだわりの味」、「ダシにこだわる」という言葉がしばしば出てくる。別にグルメ番組に限らない。「彼は文房具にこだわっている」とか「装丁にこだわった本作り」などと他の分野でも目にすることがある。いずれもプラス評価の意味合いだ。

    「こだわる」は漢字で「拘る」と書く。本来は「些細なことに心がとらわれて、そのことに必要以上に気をつかう。拘泥する」の意だ。「形式にこだわる」「彼は少々の事にこだわらない人物だ」などとつかう。マイナスイメージの言葉である。それが昨今は、冒頭に挙げた文例のようにプラスイメージで用いられることが多い。私の語感では許容できない語法のはずだったが、いつのまにやら流行りの新語法に染まっていたようで、自分でもふと「こだわりの一品か」など口走っていることがある。

    伝染力は国語辞典にも幅広く及んでいる。『広辞苑 第6版』では、本来の語義の後に「些細な点にまで気を配る。思い入れする」の語釈を加え、「材料こだわった」の例文まで添えている。手元にある他の辞典、「『明鏡国語辞典 第2版』(大修館書店)、『三省堂国語辞典 第6版』、『岩波国語辞典』(第7版)、『現代国語例解辞典 第4版』(小学館)も、そろってマイナスイメージの語義を併記している。小型辞典ばかりでない。中型の『大辞林』(三省堂)、『大辞泉』(小学館)までがそうなのである。

    「新しい用法」とか「近年」とかの断りをつけている辞書もあるが、あの『日本国語大辞典』第2版(小学館)もまた新語法を追認し、「(拘泥するの意、から転じて)ある物事に強く執着して、そのことだけは譲れないという気持を持つ」と載せ、市民権を与えているのには驚いた。

    ブログをここまで書いたところで、何かのヒントになるかと思い『新明解国語辞典』の編纂者、山田忠雄主幹の著書『私の語誌』(三省堂)を開いてみた。1巻目の「他山の石」編には目を通していたが、副題に「私のこだわり」とある2巻目の方は書棚に積んでおいたままだった。ところが、紐解いて打ちのめされてしまった。270ページの単行本1冊そっくりが「こだわり」という語について書かれたものだったのである。ともかく、これを読まずにこのブログを書き続けるわけにはいかない気がしてきた。で、今回はここでいったん休止し、続きは来週にさせていただくことにする。

「杮(こけら)落とし」の「杮」と果物の「柿(かき)」

(第319号、通巻339号)

    建て替え工事中だった東京・東銀座の歌舞伎座が4月に「;葺落興行」と銘打って新開場する。一般的に言えば「杮;(こけら)落とし」である。歌舞伎界ではスター中のスターの看板役者が相次いで亡くなる悲劇に見舞われたが、歌舞伎座の新装を機に再び元気を取り戻してほしいものだ。

    ところで、標題のクエスチョンに対する答えは? 実はこのテーマ、4年前に新常用漢字の改定案が公表された際に、新しく追加された196文字の一例として取り上げたことがある。それを覚えている方やもともと漢字に詳しい人にとってはきわめて易しい問だろう。

    答えは、ノー、つまり別字である。頭では知っている私の目にも、一見どころか、何回見直しても同一の漢字にしか見えない。パソコンのディスプレイ上で、フォントのポイント数を大きくしても区別はつけにくいのだが、「こけら」の方の漢字は8画、「かき」の方は一画多い9画なのである《注》。その違いはどこにあるのか。

     最初に、果物の「」の字をみてみよう。木偏の右側の旁(つくり)は、上部がナベブタ。市場の「京」や「交」の上の部分と同じだ。そのナベブタの下に「巾」という字が付いている。市場の「市」である。

     次に、こけら落としの「杮」を分解してみよう。左側の木偏は、果物の「柿」と同じだが、右側の旁が異なっている。“なべぶた”は、“なべぶた”に見えて、なべぶたではない。真ん中の縦棒が上から下まで突き抜けているのだ。漢和辞典によると、「ふつ」と音読みし、ひざかけ、まえだれ、の意という。

    で、本筋に戻ると、「こけら」と読む「杮」は、材木を削ったくず、の意。「杮落とし」とは、建築工事が終わって足場などの杮を払い落とすことから新築後行われる最初の興行、を意味するようになった。『明鏡国語辞典 第2版』(大修館書店)では、「柿(かき)」(9画)は別字、とわざわざ注記をつけている。


《注》 『新潮日本語漢字辞典』によると、両字は別字だが、JISの規格の1997年は、両者を同一字形とする見解をとっている。ATOK文字パレットの漢字検索では、果物の柿の方はJISが3341、Unicodeが“U+67FF”、こけら落としの方の杮についてはJISのコードは載っておらず、Unicodeも“U+676E”と別コードになっている。

「議論が煮つまる」とは結論が近いのか、まだ遠いのか

(第318号、通巻338号)

     言葉の使い方に間違いは付きもの。意味の誤用・勘違い、読み違い、用字の混用……。当ブログでもこれまで、自分のミスは棚にあげて様々な角度から取り上げてきたが、読み間違い程度なら実生活に大きな支障はない。しかし同じ言葉が、人によってプラスイメージで使われたり、逆にマイナスイメージで用いられては混乱をきたす。

     典型的な例の一つが「議論が煮つまる」である。煮つまる、の元々の意味は、言うまでもなく鍋物などで中身のものが煮えて水分や汁がなくなることだ。その原義から転じて「議論が煮つまってきた」と言えば、「意見が出尽くして議論も大詰めになり、そろそろ結論の段階にきた」という意味が生じた。現に規範性の高い『岩波国語辞典』(第7版)も「議論などがすっかり出尽くす」との語釈を出している。私自身もまったく同じ解釈であり、それ以外の意味はないと思い込んできた。

     ところがなんと、同じ岩波書店発行の『広辞苑』(第6版=平成20年)には、
  [1]煮えて水分がなくなる。
  [2]議論や考えなどが出つくして結論を出す段階になる。「ようやく交渉が煮詰まってきた」
  [3]転じて,議論や考えなどがこれ以上発展せず,行きづまる。「頭が煮詰ってアイデアが浮かばない」
と、「行き詰まる」という[3]の意味が加わっていたのである。なんの説明もないので、[3]の意を『広辞苑』は正規の意味として認定していることになる。意地悪な見方をすれば、『広辞苑』は第5版まではこの語義を収録し忘れていたとも言える。

    この『広辞苑』の対応には合点がいかない。10年前に発行した第5版にはなかった語義なのに、一言の注意も断りもないとは辞書利用者に対して不親切きわまりない。同じ単語で意味が「プラス」と「マイナス」、意味が正反対になるのである。

    私憤はともかく、『明鏡国語辞典』(大修館書店)、『新明解国語辞典』(三省堂)、『三省堂国語辞典』など他の国語辞典にあたってみると、「行き詰まる」の意味に言及している方が実は多数派だった。これは私の勉強不足だった。ただし、「行き詰まる」の意をあげてはいても『明鏡国語辞典』(大修館書店)のように「近年、『議論が行き詰まる』の意で使うのは俗用であり、本来は誤り」と注記してほしいものだ。それが「国民的辞書」の責務ではあるまいか。

「チカメシ」「ヨコメシ」「タテメシ」 

(第317号、通巻337号)

    松の内が過ぎたころ、昨年5月まで2年間、地域活動を共にした知人と久しぶりにたまたま出会った。知人との話が、立ち話にしては長引きそうな雲行きになったので、「(話の続きは)近いうちに一献傾けながらでも」と口にしたところ、「チカメシはあてにならないからね」という。「今月は予定が立て込んでいるから、じゃあ2月中にぜひ」と口約束した。が、2月も半ばを過ぎたのに、まだ実現していない。

    「チカメシ」はたしかに、「挨拶」代わりなのか「近いうちに飲もう」とよく口にする同僚がいた。10年以上も会っていない旧友とかわす年賀状で毎年のように「今年こそはぜひお会いして一杯やりたいものですね」とやりとりをする例も珍しくない。「チカメシ」の類だろう。半ば本心だが、大人の社交的な会話という側面があることもまた否定できない。

    同じ「〜メシ」でも「ヨコメシ」となると、別のカテゴリーになる。私が使っていたのは、『岩波国語辞典第 第7版』にある「よこめし【横飯】」の意味だ。すなわち「外国語を話しながらの食事。特に、欧米人と職務で会食すること」である。接待を兼ねたような場合だと、すき焼き、寿司、天ぷらなどの和食になることが多く、食材やその料理の文化について質問の矢をあびることになり、食事を味わうどころではなくなる。「しらたき」とか「しゃこ」とかを英語で説明するとなると四苦八苦する。

    「ヨコメシ」の私のイメージは、上記の岩波国語辞典の記述と同じだが、『三省堂国語辞典 第6版』では、外国語で会話しながら、などという状況に一切触れず、「西洋料理。洋食」とあっさり。対義語として「縦飯」(タテメシ)を添えている。『新明解国語辞典第7版』(三省堂)も同じ趣旨だがもうちょっと丁寧に「(和食に対して)洋風の食事の俗称(「横」は横文字に由来する。この表現をもじって和食を「縦飯」と呼ぶ向きもある)」としているが、ただし、同辞典には「縦飯」の見出しはない。

    ヨコメシについては、職場で同僚との横のつながり同士で食事をすること、タテメシについては、和食の意の他に、上司や部下と共にする食事、と解説する人もいる。

    正直に言うと、「ヨコメシ」にしろ「タテメシ」にしろ、『広辞苑』(岩波書店)にも『明鏡国語辞典』(大修館書店)にも掲載されていないので、国語辞典で扱われる言葉でない、と思い込んでいた。ところが、実際には『日本国語大辞典』や『大辞泉』(共に小学館)にも収録されていた。辞書はマメに広くあたるべきだと改めて痛感した。

音羽御殿での「鳩首協議」

(第316号、通巻336号)

    義父が元総理、夫は元外相。ご自身はブリヂストン創業家の長女として生まれた。鳩山由紀夫元首相と邦夫元総務相の母としても知られる鳩山安子さんが11日死去した。享年90。その経歴から“ゴッドマザー”の異名でも呼ばれた。

    鳩山家と言えば、日本を代表する華麗な上流階級の一族であり、大富豪である。同時に思い出されるのが、東京・文京区の通称「音羽御殿」だ。安子さんの夫・威一郎氏の父の元首相・鳩山一郎氏の私邸として建てられた洋館だが、1950年(昭和25年)一郎氏が政界再編に動いたころ、この会館が政治家の会合の場所としてしばしば使われたという。

    その印象が強いせいか、あるいは「鳩」の文字のせいか、私などはつい「鳩首(きゅうしゅ)協議」という言葉を思い浮かべてしまう。それも「首」の字に引きずられて「首脳」と結びつけ、「鳩首協議」とは、偉い人たちが急きょ集まって会議を開くというイメージだ。
    
    とんでもない誤解だった。漢和辞典を引いてみたら、「鳩」という字には、鳥のハトの意のほかに、「集める。集まる」の意味もあることが分かった。「鳩首」で首を集める、すなわち人々が寄り集まって相談することを指す、という。「閣僚が鳩首協議する」という具合に使われる。現在は、鳩山家の業績を伝える記念館「鳩山会館」と衣替えしている。

    安子さんの死去について、鳩山由紀夫元首相は「父、私、弟を政治家に導いてくれたのは母だった」と語り、弟の邦夫氏も「ゴッドマザーと呼ばれたが、(息子が)政治決断する時、こうしなさいと言われたことはない。とにかく心配ばかりする人だった」と振り返った。

    『明鏡国語辞典 第2版』(大修館書店)によれば、「鳩に三枝(さんし)の礼あり」との言葉が中国の古典にあるそうだ。ハトの子は親のとまる枝から三枝下にとまるということから、「子は親に対して礼を重んじ,孝を尽くさなくてはならないことのたとえ」という。

「勧進帳」で記事を送る 

(第315号、通巻335号)

    大事件が発生すると、新聞記者は現場へ急行する。取りあえず事件の概要をつかみ、周辺の様子をざっと観察する。締め切り時間に間に合わせるため一刻も早く原稿を送らなくてはならない。現在ならノートパソコンに原稿を打ち込み、本社や支局へ素早く送信できる。しかし、今から十数年前まではそう簡単ではなかったようだ。
    
    原稿を書く場所も、時間的余裕もない場合は、メモ帳の走り書きをもとに、あるいは同僚の情報もまじえて、頭の中だけで記事の形にする。「事件のあった現場は、○○市の官庁街の中心部にあり、(えーっと)県庁や市役所の建物が……」などと時折つかえながらも文章にしていく。いわば「空(そら)」で原稿を電話に吹き込むのである。これを業界用語で「勧進帳」という。

    この業界用語は、歌舞伎十八番の一《注》の演目「勧進帳」から来ている。勧進とは寺・仏像などの建立や修繕のため寄付を集めること、勧進帳はその趣旨を記した巻物を指す。

    壇ノ浦の合戦で平家を滅ぼした源義経は、猜疑心の強い兄の頼朝に追われ、武蔵坊弁慶らわずかの家来と共に京都から奥州平泉の藤原氏の元へ落ちのびる途中、加賀の国の安宅の関所(現在の石川県)で怪しまれたが、弁慶の機転で難を逃れた。

    その際に重要な役を果たしたのが「勧進帳」だった。山伏に変装していた一行の身分を疑われると弁慶は、東大寺復興勧進のため諸国を回る役僧と称し、何も書かれていない勧進帳(寄付帳)を朗々と読み上げるなどして危機を乗り切った。何も書かれていないのに記事を作って送ることを勧進帳と呼ぶようになった由縁である。

    勧進帳の演目は、先日急逝した歌舞伎界の大看板、市川団十郎が得意としたものの一つだ。歌舞伎の舞台は数える程しか観たことがないが、4月にこけら落としする新・歌舞伎座でぜひ観たいと思っていたのは、団十郎勧進帳だった。個人的な感慨はともかく、団十郎の死は歌舞伎界全体にとって、言い表せないほど大きな損失だ。中村勘三郎に続く歌舞伎界の悲劇に言葉もない。


《注》 「十八番」(おはこ)は、得意とする芸を指すが、『明鏡国語辞典 第2版』(大修館書店)などの辞書によれば、箱に入れて秘蔵する意で、江戸歌舞伎の名門・市川家がお家芸とする歌舞伎十八番の台本を箱に入れて大切に保管したことから出た言葉という。